仕事において"疑う"ということを考えてみた 【編集中】
今回は、仕事の中で"疑う"ということが何故大事なのか考えてみました。
「嘘つく人ばっかりだよ!」とかいう話ではなく、私の中で「疑った方が適切な判断が出来る場合がある」という経験則があるような気がしたので、何故そう思うのかを整理してみます。
それでは、仕事の中で「疑う」ことで適切な判断を出来ることがある、ということが成立するにあたって、どのような前提があるかを考えてみます。
前提:人は自分の能力の範囲までしか評価出来ない
まず、色んな仕事をしてきてヒシヒシと感じるのは、「自分の分からないものは評価出来ない」ということです。
例えば、私はWebデザインに関してはド素人ですので、外部の方にデザインをお願いしても、その仕事の質が高いか低いか、金額に見合っているかどうかなどが「何となくイケてるっぽい!あ、でもここは使いにくそうだけどなぁ・・・」とかそのぐらいの雰囲気でしか分からないと思います。
逆の立場(私が仕事を頼まれた経験)での例を挙げてみます。
私は、営業やプロマネの方がお客様に提示する契約書を作成する仕事をしていたことがあります。
契約書を作るときは、
「この部分はこういう条件にしておかないとこういうことが起き得る、仕事の範囲が曖昧なので少なくともこういう自体になったら判断する権利はこちらが持っていることにしておこう、秘密保持の条項は実務上これは無理だからこうで、業務プロセスに照らし合わせると申込みと承諾の確証はこういう形で・・・」
とか色々考えて契約書を作っていましたが、営業やプロマネの方からすると、「何かそれっぽい契約書出来たし、法務の人が作ってるから大丈夫っしょ!」という感じだったりします。ただ、実際は契約書を作成する人の能力次第で結構ムラがあって、現場経験のある方なら「ヤバそうなところ」の勘所が優れているとか、法律知識の差によっても契約書の良し悪しに関わってきます。
仕事以外のことで考えてみると、私はフィギュアスケートをやったことが無いので、ジャンプ成功してたな、回転速いな、綺麗に見えたなといったぐらいしか分からず、どの辺りのどのような技術が優れていた、といったようなことは評価することが出来ません。
このようなことから、基本的には「自分の能力の範囲までしか適切に評価出来ないので、自分の能力の範疇を超えることは推測で評価することになる」のではないかと思います。
(そのため、企業において部下を評価する立場にある管理者に評価出来ない人が来てしまうと、適切な評価がされなかった部下がまた上司になり、負のループが発生しやすいから気を付けようとかも書いてみたいですが、組織マネジメントの話になっちゃいそうなので今回はやめておきます・・・)
何か思ったより長文になってしまいそうなため、記事を分割することにします(´・ω・`)編集中